学芸員ノート-3 由良川・大堰川の通舟計画

学芸員ノート20

学芸員ノート-3 『博物館だより20』より

  

由良川・大堰川の通舟計画

学芸員ノート-3 博物館だより20号(2024)

 南丹市内の主要な河川としては、日本海へ注ぐ由良川と、淀川に合流して瀬戸内海へ流れる大堰川(桂川)があります。ともに丹波の山地を源流としていますが、その水系は異なっており、南丹市日吉町胡麻には分水界があります。現在のように自動車や鉄道がなかった江戸時代においては、物資の大量輸送は水運が主要な手段となっていましたが、17世紀中頃に、日本海側を西に航行し下関から瀬戸内海を経て大坂へと至る西廻り航路が河村瑞賢によって開かれます。こうして大坂には全国各地からの年貢米や物資が集まるようになり、いわゆる「天下の台所」として繁栄します。西廻り航路は年貢米や物資を舟で大量に輸送できる利点はありましたが、冬季は日本海側の天候不良による海難事故のリスクや、大坂への輸送期間の問題がありました。このような問題を解消するために、日本海とつながっている由良川を利用し、上流域で水系の異なる大堰川と連結して京都や大坂方面へと輸送するルートの整備が京都や大坂の商人らによって幾度も計画されました。

 そうした計画のなかでも、具体的な概要をうかがうことができるのは、宝暦9 年(1759)の京都の商人長柄屋次兵衛らの計画です。次兵衛らは通舟について流域の諸村と対談をしていますが、その際に鳥羽村(南丹市八木町)へ差し出した文書には「嵯峨川筋(大堰川)は殿田村(南丹市日吉町)まで、和知川筋(由良川)は黒瀬村(京丹波町下山)から丹後国由良湊(宮津市)まで」(「鳥羽区有文書」『大堰川と由良川の水運』)とあります。つまり、黒瀬村の位置を考えると由良川支流の高屋川に舟着場を設け、そこから陸路で殿田村へ運ぶルートだと推測されますが、江戸幕府の許可は下りませんでした。その後も、明和7 年(1770)、安永5 年(1776)と相次いで同様の計画がありましたが、こちらも実現には至りませんでした。

 そのような中で、文政10年(1827)には、山城国淀(京都市伏見区)の住人である河村与三右衛門によって再び計画が立てられます。この計画では、丹後由良湊から丹波国何鹿郡大島村(綾部市大島町周辺)まではすでに通舟しているので、そこより上流域のエ事を行い、黒瀬川(高屋川)の水源である字鷹之巣で陸揚げし胡麻川までの大原野16町余りは牛馬にて運送、そして再び舟積して殿田村で大堰川に連結するという計画であったようです(藤田彰典『京都近郊社会経済史』)。

 掲載図版の「由良通船川々絵図」は与三右衛門の計画を伝えるものと考えられますが、由良川筋と大堰川筋が連結する地点には、畑川の「字鷹巣」から陸路による胡麻川筋へのルートが示されています。このことから与三右衛門の計画にある黒瀬川の水源で陸揚げするというのは、畑川の川べりであると考えられます。また、胡麻川から延伸するかたちで「字隅田」に舟溜が描かれていますが、この場所は現

在のJ R 胡麻駅付近(南丹市日吉町)と考えられます。結局、この計画は工事が進んだ一部箇所での通舟はあったようですが、全ルートの開通とまではいかなったようです。このように、日本海と京・大坂方面を水運で結ぶ計画は何度もありましたが、いずれも実現することはありませんでした。もし仮に文政年間の計画のような由良川から胡麻川への通舟が行われていれば、胡麻地域が流通の結節点となり、多くの物資や人々が行き交う要衝の地となっていたのかもしれません。

  

船着場・舟溜推定位置図
船着場・舟溜推定位置図

  

由良通船川々絵図(舟溜付近拡大)
由良通船川々絵図(舟溜付近拡大)

  



博物館だより20号

 

 


  

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 南丹市域を流れる大堰川(桂川)と由良川の水運の歴史について、主として近世期の様相を紹介した展示会図録。地域に残る古文書をはじめ、流域を描いた絵図などを収録。

2023年11月発行/56ページ/290g