考古資料
弥生土器
管玉生産関連出土品 [池上遺跡]
双頭龍鳳文鏡【黒田古墳】
口丹波地域で確認される前方後円墳としては最も古いとされる「黒田古墳」は、全長52メートルの前方後円墳で人を埋葬するところは副葬品として鏡をはじめ管玉や鉄製の矢じりなどが出土しました。とくに鏡は中国の後漢時代(1世紀ごろ)につくられたもので、これを意図的に割っていれていました。
三角縁仏獣鏡 [垣内古墳]
- 勾玉・管玉 [垣内古墳]
- 蛇行剣 [城谷口古墳群・2号墳]
- 耳環 [城谷口古墳群・12号墳]
- 円筒・盾形埴輪 [塚本古墳]
- 馬具 [小谷17号墳]
- 経塚出土品 [向河原経塚]
- 船阪出土銭 [イヅ遺跡]
素弁八葉蓮華文軒丸瓦 [鳥羽瓦窯跡]
園部城跡出土品 [園部城跡]
文献資料
美園町区有文書
近世期以降の園部村とその後の園部区に伝わった文書群です。現在の住所表記では、園部町美園町・同小桜町・同栄町周辺にあたります。江戸から明治に作成・保管された文書が多数あり、当時の村のすがたなどをうかがうことができます。
園部村諸用日記[美園町区有文書]
美園町区有文書に残る史料で全34冊からなる。諸用日記は天保十年(1839) 八月から明治五年(1872)二月までの記述がある。内容は幕府や藩からのお触れや、年貢収納・園部河原での相撲や万歳など、藩政や村政・生活まであらゆる記載がなされている。また、町に関する史料がほとんどないかで、諸用日記には町に関する記述もあるために、非常に重要な史料である。
- 丹波国船井郡園部村地詰帳 [美園町区有文書]
- 一礼之事 [美園町区有文書]
- 土砂留泊二附諸入用幷献立覚帳 [美園町区有文書]
小出文庫
小出文庫は、園部藩主小出氏の蔵書や藩校で使用されたと伝わる書籍群の総称です。和書や漢籍の書物が多数あり、なかには藩主の自筆本も含まれます。
これらの書籍は廃藩後、明治期に小学校長を歴任した上野盤山が管理をしていましたが、大正年間に有志者らによって文庫設立の機運が高まり、同4年(1915)には、小出文庫と盤山の蔵書を中心とした園部図書館が開館します。
園部図書館は、社会教育の振興を図るため、園部尋常高等小学校の校地に開設されますが、その後、蔵書は小学校附属図書館へ、太平洋戦争後は園部町立図書館へと引き継がれました。そのため、現在ではそれらの図書館蔵書も含まれて伝存していますが、園部藩はもとより、当地域における教育史の一端がうかがえる貴重な資料群といえ、平成29年4月には南丹市指定文化財(書籍類及び典籍類)に登録されました。
3-03-006
江戸時代
寂然集[小出文庫]
平安時代の歌人、寂然(生没年不詳)の家集です。寂然の家集は複数に分類されますが、小出文庫本は別本系統である異本寂然法師集の伝本になり、40首が収められています。古くから藤原定家自筆本を模写したものとして関連性が指摘されてましたが、最近の調査において定家自筆本と内容的にもほぼ一致することが判明しました。『寂然集』の重要な伝本として注目されます。
3-03-007・008
江戸時代
詠歌一体抜書[小出文庫]
『詠歌一体』は藤原為家の歌論書で、弘長年間頃(1261~1264)の成立とされます。本書は表紙に「抜書」とあることからでしょうか、和歌一首ずつではなく、その一部の語句だけを記しています。また、他に『八雲御抄』などの歌論書も収められています。奥書には、公家・歌人である武者小路実陰(1661~1738)の御本を、園部藩主4代小出英貞が書写したとあり、藩主自筆本と考えられます。
3-03-009
江戸時代前期
舞台之図[小出文庫]
舞台に使う道具や設置場所について図示したもので、作者は本願寺坊官の下間仲孝(1551~1616)です。仲孝は能役者としても有名であり、他に『童舞抄』など、能関係の著作を残しています。本書の奥書によれば、仲孝が武家の筑紫広門(1556~1623)に直接付与したと考えられることから、法政大学能楽研究所の鴻山文庫に蔵される仲孝自筆『舞台之図』の系統の写本であろうと推察されます。
また、『舞台之図』には挟込文書が付属しています。それによれば、「この『童舞抄』(『舞台之図』の間違いか)は、筑紫広門が下間仲孝に懇望して伝授されたものでしたが、一覧した細川越中守(忠興か)が大変気に入ってしまったので譲り受けました。のちに、仲孝の自筆本と校合したところ全く間違いがなかったので、能楽師の梅若六郎へ贈りました」とあることから、もとは梅若家に伝来した可能性があります。
梅若家と小出氏は、船井郡内にあった梅若領上稗生村(南丹市日吉町生畑)の年貢管理などで近い関係にあったので、譲られるなどして小出文庫に蔵されることになったのかもしれません。
3-03-010
江戸時代前期
舞台之図の挟込文書[小出文庫]
3-03-011・012 [96]
明・正徳6年(1511)
太医院経験奇効良方大全[小出文庫]
明時代の方賢が編者となり、漢方薬の処方を解説した医書です。序文・木記などから明らかなように、成化7年(1471)に朝廷の太医院で刊刻されたものに依拠して、正徳6年(1511)に民間業者が出版したことがわかります。
当本は、一部に江戸時代と考えられる補写巻が含まれてはいますが、小出文庫に蔵される漢籍のなかでも最古の書籍です。
主図合結記[小出文庫]
諸国に所在する城と城主を集成し、図化したもの。主図合結記の諸本は全国各地に伝来しているが、小出文庫のものは、元・享・利・貞の四巻で構成されている。収納箱の蓋裏には「享保11丙午歳写之 南條幽栖広金」と記した紙が添付されており、その時の成立と考えられる。丹波国では福知山・篠山・亀山の各城が収録されているが、園部については陣屋であるため描かれていない。
園部藩関連
江戸時代、現在の南丹市域の大部分は園部藩でした。
園部藩は、元和5年(1619)に但馬国出石藩主であった小出吉親が丹波国船井郡一帯を中心とした約3万石の地に転封となったことで成立しました。以後、藩主は小出氏がつとめ、明治期の廃藩置県まで約250年間にわたって存続しました。当館には、園部藩や藩主小出氏に関するものを多数収蔵しています。
→「園部藩の歴史と文化」展に掲載された 収蔵品リストはこちら
小出吉親像
天正18年(1590)生まれ、寛文8年(1668)3月11日没。 初代藩主で在任期間は元和5年(1619)8月5日から寛文7年(1667)6月9日。 初代藩主として陣屋の築造と町場の整備を行い、藩の基礎を築いた。戒名は福源院松渓玄秀で肖像画の作者は狩野探幽、着賛 は外伝宗左である。
園部藩参勤交代行列図
明治37年(1904)に作成されたものであるが、嘉永年間(1848~1854)の園部藩参勤交代行列を示している。 行列図には「徒士」「挟箱」「荷篭」「御草履」など他の藩でも見られるような役割が描かれている。 園部藩主小出氏の「亀甲に小の字紋」や「丸の内に額紋」が多くの道具類(「挟箱」「篭」など)に描かれていることは 注目に値する。
黒漆塗茶弁当
外出時に携帯し、野外で使用する風炉や茶道具類を納める箱で、担い棒を上部に差し込み運搬する。道具箱の一部や担い棒は失われているものの、現存する風炉釜には亀甲に小の文字が入っていることから、藩主小出氏ゆかりのものと思われる。なお、園部藩参勤交代行列図には茶弁当を担ぐ人物が描かれており、絵画資料と合わせて鑑賞できる貴重な資料といえよう。
藩札
藩札は基本藩領域でのみ使用された。上方は銀の通用が基本であったため、園部藩札も「五匁」「一分」というように、銀単位で取引されている。
園部藩では、宮町掛屋と本町新屋が札元となり、宮町にあった銀札場で発行がおこなわれたようだ。
→ 収蔵品【考古資料】詳細ページ
絵画資料
絵図は、丹波国や丹後国など旧国域を描いた国絵図、建物の配置や概要を示す見取り図、土地の境界をめぐる争いで作成された争論絵図などがあります。
148
園部藩城郭之図
大正2年(1913)に描かれたもので、「廃藩当時廓内之状」とあることから、廃藩となった明治4年(1871)頃の様子を伝えていると考えられる。家臣たちの屋敷地が描かれており興味深い。
丹波州之図
丹波国六郡に所在する村々を郡ごとに色分けし、楕円形の枠内に村名を記す。村ごとに○・△・□の記号を付しているが、これは園部・亀山・篠山藩領であることを示している。また、道は赤色、川は水色で描く。絵図表には明和五年(1768)に書写したこと、絵図裏には正保四年(1647)の丹波国六郡の石高などを記すが、村落の領主関係から、制作年頃の状況を描いていると考えられよう。
69
江戸時代
丹波国船井・桑田・何鹿郡領主別色分図
丹波国船井・桑田・何鹿郡の村々を、それぞれの領主ごとに色分けして描かれているが、一番多いのは園部藩主である小出伊勢守を示す赤色である。丹波国での小出氏の所領は、船井・桑田・何鹿郡に限られるので、当図の描き方からは園部藩領を中心としていることが考えられる。このため、藩領図といえるものであるが、制作年代は、大名らの支配地関係や官位名から1700年代後半頃が想定されよう。
57
三崇社祭礼等図
三崇社とは、かつて園部城内にあった初代園部藩主小出吉親と、その父吉政・祖父秀政を祀った神社です。図には石碑が描かれていますが、これは秀政の250回忌にあたる嘉永6年(1853)に建てられました。また、この年には社殿再建後の初めての祭礼があり、村役人らの参詣も許可されました。ここに描かれる祭礼は、この時の様子を伝えているものかもしれません。
170
明治39年(1906)
園部公園平面図
園部公園の開園式は明治39年(1906)11月2日に、忠魂碑の除幕式と併せて挙行された。当図の発行も同日であるので、それを記念して作成されたと思われる。またその他にも、記念の絵葉書や公園の名所を紹介した『園部公園附船井名所』も発行されている。
嵐山名所図絵附保津川くだり
嵐山・愛宕の名所および保津川下りを紹介したもので、昭和5年(1930)に発行されています。画面中央より嵐山周辺の名所がパノラマで広がっていますが、東方面には富士山も小さく描かれています。この地図を描いた絵師は吉田初三郎で、独特の鳥瞰図を用いる手法は観光パンフレットなどで大変な人気がありました。なお、裏には名所の紹介文があります。
丹波名勝琉璃渓
昭和8年(1933)に琉璃渓保勝会が作成したるり渓の観光パンフレットです。画面の左端には園部駅があり、右に向かってるり渓方面へと鳥瞰図で描かれた風景が展開しています。裏にはるり渓の紹介文とともに、貸切自動車や旅館の案内などが記されており、1日往復3便の乗合自動車も定期運行していたようです。
民具資料
吸子(すっぽん)
一見するとはしごのようにどこか高いところに登る道具にもみえますが、実は木製のポンプです。大きな水鉄砲のようなもので、もち手を上下させ、低いところにある水路や池から高いところにある田へ水を吸い上げる道具です。特に、弁の部分が巧みに作られています。
田舟
現在の田んぼは、ほ場整備や用水路の改修により、稲が実る頃には機械や人の手で簡単に刈り取ることができます。しかし、整備が進む以前には水が抜けにくい沼地のような田んぼもあり、刈り取った稲がぬれないように畦まで運ぶときに田舟は活躍しました。田舟は約2メートル前後の小さなものですが、稲を載せるとともに重くなるため、ロープで引っ張る人と後ろから押す人が必要でした。
種おとし機
中央部分の棒を手前に引くことによって、本体部分の穴が見え隠れし、穴の部分からタネが落ちる仕組みになっています。
- 貧乏徳利
- 踏み台(兼ゴミ箱)
- ハエ捕り機
- 茶壺
- 火のし
写真資料
保津川大瀬(保津川関係写真)
保津川落合石門(保津川関係写真)
美術
麻田辨自
麻田辨自(1899-1984)は、南丹市八木町出身の日本画家です。妻・鶴は上村松園の弟子直園、日本画家麻田鷹司、洋画家麻田浩はその息子です。辨自は、大正3年(1914)、富本尋常高等小学校を卒業後、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校、同研究科に進みました。昭和4年(1929)から西村五雲に師事し、五雲の死去後、山口華楊らとともに晨鳥社を創設しました。
麻田辨自『群鶏』南丹市立文化博物館蔵
大塚春嶺
大塚春嶺は明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。文久元年(1861)12月、船井郡園部村(現南丹市園部町美園町)に、小林源助の長男として生まれました。本名は勝之助。幼少期から絵に長じていた彼は、やがて四条円山派の画家である大阪の深田直城に師事してその画法を学び、ついで幸野楳嶺の弟子で、菊池芳文、竹内栖鳳、都路華香とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれた谷口香嶠の門に入り、歴史画の手法を極めました。
大塚春嶺『後醍醐天皇京師還御奉迎図』南丹市立文化博物館蔵
岡村宇太郎
大塚春嶺は明治から昭和にかけて活躍した日本画家です。文久元年(1861)12月、船井郡園部村(現南丹市園部町美園町等)に、小林源助の長男として生まれました。本名は勝之助。幼少期から絵に長じていた春嶺は、やがて四条円山派の画家である大阪の深田直城に師事してその画法を学び、ついで幸野楳嶺の弟子で、菊池芳文、竹内栖鳳、都路華香とともに楳嶺門下の四天王と呼ばれた谷口香嶠の門に入り、歴史画の手法を極めました。
岡村宇太郎 『虎図』南丹市立文化博物館蔵
人見少華
人見少華は、明治20年(1887)2月、船井郡富本村(現南丹市八木町)に生まれました。日本画家から南画家へと転身しました。池大雅研究家としても知られます。少華は名声を求める作家というよりも、自らが画を描いて楽しむ人であったように思われます。少華の作品は南丹市域を中心に膨大な数が残されています。
人見少華 『老松双鶴図』南丹市立文化博物館蔵
田村宗立
弘化3年(1846)、丹波国船井郡上河内村(現南丹市園部町船岡)で生まれた田村宗立は、安政2年(1855)、10歳の頃に南画を、翌年からは六角堂能満院の画僧・大願憲海のもとで仏画を学びました。その後、写実的な絵画に関心をもつようになった宗立は独自の陰影表現を用いた洋画の制作に取り組み、多数の作品を残しました。晩年は再び日本画に戻り、墨絵で軽妙な道釈人物などを描いて余生を送り、大正7年(1918)に72歳で没しました。
田村宗立『唐子遊戯図』南丹市立文化博物館蔵
麻田浩
麻田浩は南丹市八木町出身の日本画家麻田辨自の二男として、昭和6年(1931)、京都市に生まれました。兄は日本画家の麻田鷹司がいます。昭和29年(1954)新制作協会展に初入選後、アンフォルメルの影響を受け、アスファルトなどを使った抽象画やシュルレアリスム的な作品を発表。昭和46年(1971)からの渡仏を機に、宗教的な精神性を込めた独自の作品を制作し、国内外で高い評価を受けました。昭和57年(1982)、帰国後は京都にアトリエを構え、京都市立芸術大学の教授を務めながら創作活動を続けましたが、1997年、自ら命を断ちました。
麻田浩『人ー(胎)』南丹市立文化博物館蔵
麻田鷹司
麻田鷹司(本名:昴[たかし])は、昭和3年(1928)、麻田辨自の長男として京都市に生まれました。幼い頃から画に親しみ育った鷹司は、ごく自然に画家の道を歩み始めました。鷹司は生涯一貫して風景を描き続けました。特に昭和35年(1960)頃から「名所」「名勝」と呼ばれる風景は日本人の宗教観や風景観と深くつながっていると考え、意識的に作品として取り上げました。昭和42年(1967)には、法隆寺金堂再現模写事業に従事します。昭和41年からは武蔵野美術大学で教鞭をとり、後進の指導にもあたっています。
麻田鷹司『足摺岬』南丹市立文化博物館蔵
國府克
國府克は、昭和12年( 1937)に船井郡富本村( 現南丹市八木町)に生まれました。國府の手掛ける作品は、広大な原野や荘厳な山々、人々の暮らしの情景など様々なものがモチーフとなっています。昭和57年(1982)からはK2( カラコルム)やエベレストなど世界有数の山岳を眼前に取材し、作品として発表してきました。近年は、日本の富士山をテーマとした作品を多く制作するなど、山々から感じられる圧倒的な生命力を写実描写で表現されています。
國府克『本栖湖の富士』南丹市立文化博物館蔵