原始の園部
🔸 園部のおいたち 〜園部の地質〜
46億年にのぼる地球の歴史の中で園部の盆地はいつ頃できたのでしょうか。園部の北部にある観音峠に見られる石灰岩は、3〜4億年前の古生代後半に南太平洋のサンゴ礁で形作られたもので、フズリナなどの化石が見られます。また、園部市の中心部の山はチャートという岩石が多く見られます。チャートは石灰岩と同様に海底のプレート移動によってこの地までやってきて、現在の丹波の山々を形成しています。
園部周辺が含まれる丹波帯という地層は、中生代ジュラ紀までに形成された地層で、この付近での火成活動は、後期白亜紀に起こったと考えられています。園部市の南にある『るり渓』が形作られたのはこの時代です。その後、鮮新世・更新世の後半から近畿地方では六甲変動という上昇、下降の地殻変動があり、京都の奈良をはじめ亀岡や園部の各盆地が形成されました。この時、園部や亀岡の盆地一帯は巨大な湖となり、当時の湖水面は標高280m付近(現在の観音峠付近)であったと考えられています。その後、地殻変動により湖が干上がると前後して、現在の桂川(大堰川)が形成されました。
園部の大地~化石・宝石・岩石展~
園部町とその周辺地域の地質・地層をテーマとした展示会図録。
園部町にある埴生断層やかつて採掘が行われていた船岡鉱山なども紹介。
2001年8月発行/17ページ/90g/
園部の主要古墳
南丹市の遺跡
南丹市内に分布する遺跡の中でも発掘調査が行われたものを中心に、各遺跡の諸相や出土資料を紹介した展示会図録。
--目次--
Ⅰ 人びとの生活と信仰 -集落・祭祀遺跡-
天若遺跡
今林遺跡・曽我谷遺跡
池上遺跡
野条遺跡
諸畑遺跡・室橋遺跡
八木嶋遺跡
宮ノ口遺跡
町田遺跡・向河原遺跡
[コラム1]
遺跡について
Ⅱ さまざまな被葬者たち -墳墓・古墳-
黒田古墳
狭間墳墓群・中畷古墳
垣内古墳
平山古墳・カチ山北古墳群
徳雲寺北古墳群
城谷口古墳群
今林古墳群
岸ヶ前古墳群
塚本古墳・町田東古墳群
黒田北古墳群・小山古墳群
新堂池古墳群・小谷17号墳
川向北古墳群・坊田5号墳
天神山古墳群
[コラム2]
地表に刻まれた遺跡 -八木の水田景観
Ⅲ 瓦・土器をつくる -生産遺跡-
壺ノ谷窯跡群
堂山2号窯跡・鳥羽瓦窯跡
[コラム3]
身近な遺跡たち -中世城館遺跡
Ⅳ 戦国・江戸の城 -城館遺跡-
八木城遺跡
園部城遺跡
王の登場 〜園部の前期古墳〜
黒田古墳と垣内古墳という前方後円墳に埋葬された人物は周辺地域を統括していた”王”で、園部の地に大きな勢力があったとうかがえます。また、中畷古墳の被葬者も有力な人物であったと思われます。
今林8号墓
今林1号墳
黒田古墳
平山古墳
中綴古墳
垣内古墳
園部・古墳周遊 〜平山遺跡群とその時代
園部町の北東部にある平山遺跡群で行われた一連の発掘調査の成果を中心として、弥生から古墳時代の様相を紹介した展示会図録。
園部垣内古墳 発掘50年をふりかえる
園部垣内古墳(南丹市園部町内林町)の発掘50年を回顧した展示会図録。当時の発掘調査のようすを撮影した写真や調査日誌のほか、多数の出土遺物を収録。
前方後円墳から方墳へ 〜園部の中期古墳〜
周辺地域を統括していた勢力が園部以外の地に移っていった結果、この地では”王”に仕えた人々の古墳が造られるようになりました。
カチ山2号墳
徳雲寺北1号墳
今林6号墳
岸ヶ前2号墳
小桜1・2号墳
カチ山1号墳
町田東3号墳
儀式の場から家族の墓へ 〜園部の後期古墳〜
横穴式石室の導入より古墳は本来の墓としての役割が強まりました。古墳の数は急増し、今まで造られなかった谷にも造られるようになります。
小山1号墳
下金ヶ沢古墳
黒田北古墳群
小山2号墳
天神山古墳群
川向北1号墳
中世の園部
武士のはじまり 〜鎌倉・室町時代の園部
この地域には公家や寺社の荘園のほか、室町幕府の御料所があり幕府の経済を支えていました。またこの時代には、戦いにそなえて、たくさんの城が築かれていました。
八木城と内藤氏
八木城と内藤氏の概要について紹介した展示会図録で、八木城絵図や内藤氏に関連する古文書類を中心にカラー図版で収録。また、図録に掲載した古文書類の資料翻刻集を別冊で販売し、古文書読解の便を図る。
目次
第一章 八木城の成立と展開
八木城跡の現況
八木城築城以前の周辺地域
八木城の成立
八木城での合戦
発掘調査にみる八木城
第二章 丹波守護代内藤氏
丹波守護細川氏と内藤氏
守護代内藤氏の系譜
内藤貞弘とジョアン
第三章 明智光秀の丹波攻略と八木城
第四章 丹波退去後の内藤ジョアン
エピローグ 地域史料にみる八木城と内藤氏
近世の園部
▪️大堰川の筏流し
大堰川(桂川)は京都市左京区広河原の大悲山付近を源流とし、京都市右京区京北、南丹市域の中南部、亀岡市を流れ、保津峡を経て京都市西京区嵐山へと至り、のちに淀川へ合流して大阪湾へと注いでいる。古来より丹波地域で生産された木材は、大堰川を利用した筏流しで京都へ輸送されてきたが、江戸時代以降は流通機構が整備され、筏問屋(流された筏を中継する)・山方(木材を生産して出荷する筏荷主)・材木問屋(木材の販売を行う商人)という組織体制が確立された。筏問屋は南丹市域にもあり、上世木村・殿田村(南丹市日吉町天若・殿田)に設置されていた。なお、筏流しは農業用水の関係で、旧暦8月15日から翌年の4月8日まで期間を限定して行われた。
・大堰川の舟運
慶長11年(1606)、角倉了以が江戸幕府の許可を得て保津峡の開削を行い、これによって丹波国船井郡中・殿田村(南丹市日吉町中・殿田)から山城国葛野郡嵯峨方面(京都市右京区)へ川舟を利用した輸送が可能となり、米穀や薪炭などの諸物資が運ばれるようになった。舟運が開始されると流域の中・殿田・上河内(南丹市園部町船岡)・鳥羽・広瀬(同市八木町鳥羽・南広瀬・北広瀬)、川関・宇津根・保津・山本(亀岡市)の各村に舟着場が設けられ、税の徴収権を有する角倉家から舟を預かり受けた「舟待」と呼ばれた人びとが運送活動に従事していた。運送された荷物は、不正がないかどうか宇津根村の舟着場で点検を受けたのち、その下流にある保津ですべて降ろされ、保津・山本村の舟に積み替えて嵯峨まで運ばれたが、運行期間は筏流しと同様に旧暦8月15日から翌年の4月8日までであった。
大堰川と由良川の水運
南丹市は森林資源に恵まれた地域で、古くから林業を生業のひとつとしてきており、生産した木材を消費地へ移出する際には大堰川(桂川)や由良川の水運を利用してきました。
古文書、絵図、写真などの資料から大堰川・由良川水運の歴史や、周辺地域における人々の暮らしの諸相を紹介しています。
街道 〜人々のくらしをつなぐ道〜
南丹市域には、山陰道・篠山街道・若狭街道を始めとする複数の街道があり、古来より多数の人々が往来するとともに、物資の輸送や情報の伝達などが行われてきました。古文書や絵図などの諸資料から南丹地域に所在する街道の歴史や周辺地域の文化について紹介した企画展「街道 〜人々のくらしをつなぐ道」の展覧会図録。
園部藩の成立
園部藩の歴史と文化
園部藩の誕生から400年、園部陣屋の城郭化改修工事から150年という節目に開催した展示会図録。
園部藩の成立から廃藩後までを171点の資料のほか、多くの写真で紹介している。「園部藩藩領図」付き。
園部城の誕生
元治元年(1864)12月、園部藩は幕府へ対し、池田屋事件や禁門の変などの武力衝突が起こるなか、京都に近い要衝地の園部も防備を固めておく必要があると説き、園部陣屋に櫓門や櫓などを新規に築造したいと絵図を添えて願い出た。この時は不認可であったが引き続き交渉を行い、慶應3年(1867)には内諾を得るも大政奉還となったため、正式な許可が下りない状況となった。そうしたところ、園部藩は翌年1月に新政府に築城許可を願い出て、「帝都御守衛」のためとしてすぐに認められた。この後、すぐに築造が開始され、明治2年(1869)には櫓門3ヶ所、櫓5基が完成し、日本の歴史上、最後の城が誕生した。
近現代の園部
園部公園の開設
明治2年(1869)に完成した園部城はわずか4年でその役目を終えた。城址跡となった小麦山とその周辺には、園部公園が整備されることとなる。
かつて園部城の庭園は、折に触れて人々に公開されることもあったが、明治4年の廃藩置県で官有となった後は立入禁止となり、雑木が繁茂して荒れ果ててしまっていた。その一方で京都ー宮津間のちに道路が完成し、京鶴鉄道の開通も見込まれる中、園部に観光客を呼び込む名所を作ることが急務となった。また明治25年には城跡付近に藩主紀恩碑が建てられるなど、藩政時代を懐かしむ雰囲気も高まっていった。
その中で当時の園部町長と園部村長が、城跡を町の中枢にふさわしい観光地にするため、政府に園部公園設置を働きかけた。明治30年に許可を得ると、まず同32年に現在の園部公園駐車場が公園地となり、同39年に小麦山を含めた園部公園が完成した。当時の公園内には紅葉谷・真弓橋・霞平・六花亭などの景勝地が設けられ、観光客を楽しませたという。
現在園部公園の周辺には、保存・シンボル・コミュニティ・スポーツといった理念をもとに多目的運動場などの運動施設や博物館・図書館などの文化施設が建てられ、今も市民が集う場所となっている。
山陰道鎮撫使
慶応3年(1867)10月、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜は大政奉還により政権を朝廷に返上し、そして12月には王政復古の大号令が発せられ、摂政・関白や将軍職などの旧体制の制度は廃止となり、ここに新政府が発足した。新政府は慶喜に内大臣の辞退、さらには所領の返上を要求するが、旧幕府側は当然ながら不満をもち、翌年の1月3日には新政府との間で鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
鳥羽・伏見の戦いの翌日、西園寺公望が山陰道鎮撫総督となり、丹波・丹後・但馬国の諸藩を新政府に帰順させるための山陰道鎮撫使が派遣された。鎮撫使は5日夜に馬路村(亀岡市)に到着し、翌6日に亀山藩を恭順させる。7日には馬路村を出発し八木村、鳥羽村を経て園部城下に至った。園部藩は家老の長瀬久左衛門らが同日に請書を差し出して恭順、鎮撫使は園部本部に滞在して体制を整え、9日に篠山へ向けて出発した。
鉄道の開通
日本に鉄道が開通したのは明治5年(1872)のことで、新橋ー横浜間の27キロメートルが結ばれた。その後明治7年には大阪ー神戸間、同10年には京都ー大阪間が開通するなど、着々と交通網の整備が進み、日本各地の重要な都市が繋がっていった。
そのような中、舞鶴に海軍の基地がある鎮守府が置かれることになり、要地である舞鶴への鉄道の整備が急務となる。しかし政府の施設工事はなかなか始まらず、いよいよ明治26年には田中源太郎が中心となって京都鉄道株式会社が設立され、京都ー園部ー舞鶴間の私設鉄道の導入が進められた。明治29年に着工し、同32年に京都ー園部間35.2キロメートルが開通する。園部以西も順次敷設されていく予定だったが、京都鉄道は資金繰りに悩み、結局京都ー舞鶴間の敷設は政府に引き継がれた。明治43年に園部ー舞鶴間が開通、起工以来14年、ここに京鶴線が全通した。
鉄道の開通によって人員の移動だけでなく、これまで人力や舟運が主だった物流の便もよくなり、沿線各地は活況を呈した。とくに殿田駅や胡麻駅周辺の発展は著しく、飲食店や人力車の帳場などが軒を連ねた。また八木駅の周辺も列車にのせられる薪や米穀などで埋め尽くされるほどの賑わいをみせた。
鉄道と観光
明治32年(1899)に開通した京都鉄道から現在のJRに至るまでの変遷を紹介するとともに、鉄道の開通により変化した町の様子も併せて、観光パンフレットや古写真などから紹介した企画展「鉄道と観光 〜地域をむすぶ交通〜」の展示会図録。
あいつぐ水害とダム建設
南丹市域には、主要な河川として由良川・桂川が流れているが、これらの河川は台風や集中豪雨によってたびたび氾濫してきた。戦後においては、昭和24年(1949)7月のへスター台風、昭和25年9月のジェーン台風などでも浸水被害があったが、昭和28年の台風13号では由良川・桂川の堤防が決壊し、流域の広範囲に甚大な被害をもたらした。その後の昭和34・35・36年にも台風などの影響による浸水被害が発生し、とりわけ35年の台風16号水害では、八木町に救助派遣されていた陸上自衛隊福知山部隊の3名が、ボートで桂川を渡ろうとした際に転覆して殉職するという痛ましい事故も発生した。
こうしたあいつぐ水害のなかで、洪水調節の役割を果たすダムの建設が計画され、桂川では昭和36年(1961)、日吉町中・天若地区にダムの建設設計が発表される。当時「宮村ダム」と呼ばれていたこの計画はのちに日吉ダム事業となり、ダム建設によって水没する188世帯の補償交渉の妥結後に工事が着工された。ダムは平成9年(1997)に完成、翌年4月から供用が開始された。
一方の由良川流域では、戦争の影響により建設中止となった大野ダム(美山町樫原)が、昭和28年の水害を契機に再注目され、その後、周辺地域の補償交渉を経て、昭和36年に洪水調節と発電を目的としたダムが竣工した。
近代行政の成立
明治5年(1872)に戸籍制度が施行されるとともに、従来の町村を新たな