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収蔵品【考古資料】
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- 弥生土器 [池上遺跡・曽我谷遺跡・今林遺跡]
- 管玉生産関連出土品 [池上遺跡]
- 双頭龍鳳文鏡 [黒田古墳]
- 三角縁仏獣鏡 [垣内古墳]
- 勾玉・管玉 [垣内古墳]
- 蛇行剣 [城谷口古墳群・2号墳]
- 耳環 [城谷口古墳群・12号墳]
- 円筒・盾形埴輪 [塚本古墳群]
- 馬具 [小谷17号墳]
- 経塚出土品 [向河原経塚]
- 船阪出土銭 [イヅ遺跡]
- 素弁八葉蓮華文軒丸瓦 [鳥羽瓦窯跡]
- 園部城跡出土品 [園部城跡]
双頭龍鳳文鏡【黒田古墳】
口丹波地域で確認される前方後円墳としては最も古いとされる「黒田古墳」は、全長52メートルの前方後円墳で人を埋葬するところは副葬品として鏡をはじめ管玉や鉄製の矢じりなどが出土しました。とくに鏡は中国の後漢時代(1世紀ごろ)につくられたもので、これを意図的に割っていれていました。
垣内古墳からの出土品。園部垣内古墳(園部町内林町)は4世紀後半に造られた全長84メートルの前方後円墳で、周濠を含めた全長は107メートルに及んでいます。口丹波地方の前期古墳では最大の規模を誇り、周辺地域を治めた王の墓と考えられています。
園部藩関連
江戸時代、現在の南丹市域の大部分は園部藩でした。
園部藩は、元和5(1619)年に但馬国出石藩主であった小出吉親が丹波国船井郡一帯を中心とした約3万石の地に転封となったことで成立しました。以後、藩主は小出氏がつとめ、明治期の廃藩置県まで約250年間にわたって存続しました。当館には、園部藩や藩主小出氏に関するものを多数収蔵しています。
小出吉親像
天正18年(1590)生まれ、寛文8年(1668)3月11日没。 初代藩主で在任期間は元和5年(1619)8月5日から寛文7年(1667)6月9日。 初代藩主として陣屋の築造と町場の整備を行い、藩の基礎を築いた。戒名は福源院松渓玄秀で肖像画の作者は狩野探幽、着賛 は外伝宗左である。
園部藩参勤交代行列図
明治三七年(1904)に作成されたものであるが、嘉永年間(1848~1854)の園部藩参勤交代行列を示している。 行列図には「徒士」「挟箱」「荷篭」「御草履」など他の藩でも見られるような役割が描かれている。 園部藩主小出氏の「亀甲に小の字紋」や「丸の内に額紋」が多くの道具類(「挟箱」「篭」など)に描かれていることは 注目に値する。
黒漆塗茶弁当
外出時に携帯し、野外で使用する風炉や茶道具類を納める箱で、担い棒を上部に差し込み運搬する。道具箱の一部や担い棒は失われているものの、現存する風炉釜には亀甲に小の文字が入っていることから、藩主小出氏ゆかりのものと思われる。なお、園部藩参勤交代行列図には茶弁当を担ぐ人物が描かれており、絵画資料と合わせて鑑賞できいる貴重な資料といえよう。
藩札
藩札は基本藩領域でのみ使用された。上方は銀の通用が基本であったため、園部藩札も「五匁」「一分」というように、銀単位で取引されている。
園部藩では、宮町掛屋と本町新屋が札元となり、宮町にあった銀札場で発行がおこなわれたようだ。
文献資料
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美園町区有文書
近世期以降の園部村とその後の園部区に伝わった文書群です。現在の住所表記では、園部町美園町・同小桜町・同栄町周辺にあたります。江戸から明治に作成・保管された文書が多数あり、当時の村のすがたなどをうかがうことができます。
- 園部村諸用日記 [美園町区有文書]
- 丹波国船井郡園部村地詰帳 [美園町区有文書]
- 一礼之事 [美園町区有文書]
- 土砂留泊二附諸入用幷献立覚帳 [美園町区有文書]
園部村諸用日記
美園町区有文書に残る史料で全34冊からなる。諸用日記は天保十年(1839) 八月から明治五年(1872)二月までの記述がある。内容は幕府や藩からのお触れや、年貢収納・園部河原での相撲や万歳など、藩政や村政・生活まであらゆる記載がなされている。また、町に関する史料がほとんどないかで、諸用日記には町に関する記述もあるために、非常に重要な史料である。
小出文庫
小出文庫は、藩主小出氏の蔵書および藩校で使用されていたと伝わっている書籍類です。漢籍・和書ともにさまざまな内容の書物があり、その中にじは藩主の自筆本もあります。
- 寂然集 [小出文庫]
- 太医院経験奇効良方大全 [小出文庫]
- 和漢三才図会 [小出文庫]
「藩を被廃県を被置」(藩を廃して県を置く)とあるように、明治4年(1871)7月に行われた廃藩置県を庶民へ伝えたもの。廃藩置県後、知藩事に任命されていた藩主らは罷免され、東京への移住を命じられる。園部藩においても知藩事の小出英尚は東京へ移住、ここに園部藩は終焉を迎えた。
中央集権国家を目指していた明治政府は、米納年貢制度など近世的な制度を徐々に廃止し、こうしたさまざまな新政策を実行していった。
園部初代藩主である吉親の事績を中心に記されており、藩政初期の動向を垣間見ることができる。園部入部直後には宍人の小畠太郎兵衛のもとで仮住まいをしていたことや、園部陣屋の規模、侍屋敷の数、整備した町数やその距離などが記されるほか、櫓を築造しなかった経緯についての記述もみられる。
このような家譜類は南丹市域に複数残っており、地元では一定程度流布していたことがうかがえる。
新政府が徳川慶喜の討伐と、江戸時代が支配していた直轄地を取り上げて政府の領地とすることを庶民に伝えたもの。そうしたなか、山陰道鎮撫総督に任じられた西園寺公望が丹波国に入っており、園部藩は1月7日に恭順している。また、この時期に園部藩では江戸時代から内諾を得ながら大政奉還によって正式に認可されていなかった陣屋から城への改修を新政府を願い出て許可を得ており、混乱した情勢下に城地化を達成している。
絵画資料
丹波国や丹後国など旧国域を描いた国絵図、建物の配置や概要を示す見取り図、土地の境界をめぐる争いで作成された争論絵図など。
- 園部藩城郭之図
- 丹波州之図
- 丹波国船井・桑田・何鹿郡領主別色分図
- 三崇社祭礼等図
- 丹州保津川運上所絵図面
- 園部公園平面図
- 嵐山名所図絵腑保津川くだり
- 丹波名勝瑠璃渓
丹波州之図
丹波国六郡に所在する村々を郡ごとに色分けし、楕円形の枠内に村名を記す。村ごとに○・△・□の記号を付しているが、これは園部・亀山・篠山藩領であることを示している。また、道は赤色、川は水色で描く。絵図表には明和五年(1768)に書写したこと、絵図裏には正保四年(1647)の丹波国六郡の石高などを記すが、村落の領主関係から、制作年頃の状況を描いていると考えられよう。
主図合結記[小出文庫]
諸国に所在する城と城主を集成し、図化したもの。主図合結記の諸本は全国各地に伝来しているが、小出文庫のものは、元・享・利・貞の四巻で構成されている。収納箱の蓋裏には「享保11丙午歳写之 南條幽栖広金」と記した紙が添付されており、その時の成立と考えられる。丹波国では福知山・篠山・亀山の各城が収録されているが、園部については陣屋であるため描かれていない。
民具資料
- 吸子(すっぽん)
- 田舟
- 種おとし機
- 貧乏徳利
- 踏み台(兼ゴミ箱)
- ハエ捕り機
- 茶壺
- 火のし
写真資料
保津川大瀬(保津川関係写真)
保津川落合石門(保津川関係写真)
美術
岡本宇太郎 虎図図
寝そべる2頭の虎の姿を描いたもの。この作品がどのような目的で描かれたものかはっきりとしないが、野獣の王としての佇まいあ表現されている。ただ、手前の虎の表情は見えないものの、胴が実在より長く描かれている感がいなめない。